IBMワトソンが拓く新時代のコンピューティング

IBMのワトソンについては、すでに2011年12月に「IBMのワトソン、ヘルスケアで実用化へ」というタイトルで一度書き、それ以外でも、どこかで触れたことがあると思う。はじめての方のために、もう一度、簡単に説明すると、ワトソンは、2011年2月、米国で有名なテレビクイズ番組のJeopardy(質問者がある領域に関して、普通の言葉でいろいろと説明し、それは誰か、何か、どこかを当てるゲーム)で、最も強かった2人と対戦して勝った、IBMのスーパーコンピューターの名前だ。

その後ワトソンは、ヘルスケア分野で実用化され、いくつかの医療保険会社、医療機関で、患者の症状と、これまでの膨大な症例、研究成果等から病名の候補を、その確率とともに提案するなど、患者診断の支援に使われ始めている。特に、ガンに対する最適な治療の提案などで、すでにワトソンを使ったアプリケーション・ソフトウェアが発表されている。また、この5月には、クラウドサービスによって、ワトソンの技術を活用できることが発表された。適用分野もヘルスケアにとどまらず、小売、金融、製造など、幅広い分野に広がりはじめている。しかし、ワトソンの実用化が進んだことだけを、今回書こうとしているわけではない。

最近、あるところでIBM研究開発部門のトップであるKelly氏の話を聞く機会があり、そこで出てきた話が、ワトソンはコンピューティングの新時代を拓く、次世代コンピューターの礎という、大きな構想を持ったものだと聞いたからだ。コンピューターの歴史を見ると、大昔は、まずテーブルにスイッチやワイヤーをつなぎ合わせた演算装置からはじまった。その後、フォンノイマン(Von Neumann)アーキテクチャーといわれる、プログラム式のコンピューターが登場し、コンピューターの世界は飛躍的に進歩し、今にいたっている。ワトソンは、そのアーキテクチャーを超えた、新しいコンピューティングの世界、IBMの言うCognitive Computingの世界を拓くもの、というのだ。Cognitiveを日本語に訳すと、認知の、とか、認識の、という言葉になる。

もう少し説明すると、与えられた知識、経験から学び(ラーニング)、それを生かすコンピューター、人と同じような思考でソリューションに到達するコンピューター、人と自然な形でやりとり(インタラクション)するコンピューター、ということになる。これまでのコンピューターは、ソフトウェアで人間が書いて指示した内容を、そのまま実行するという一方通行のものだったが、ワトソンは自分で考え、人間に時には質問しながら答を見つけてくるコンピューターなのだ。研究領域としては、最近それほど話題にのぼらないが、人工知能(AI)の領域だ。

ワトソンが参加したクイズ番組は、まさしくそのような問題の解き方だ。現在のコンピューターは、この人はどんな人か、この場所はどんな所か、という質問に対しては、その情報さえ持っていれば、簡単に答えてくれる。しかし、その逆は、現在のコンピューターには、とても難しい問題だ。実際、テレビでクイズに参加するその3年前に出来上がった最初のシステムは、正解率が30-40%と低く、回答を出すまでに90分もかかったという。それを、システムのハードウェア、ソフトウェアに改善を重ね、クイズで勝負できる2.5秒以内の回答、正解率も90%近くまで持っていくことができた。それから2年余たった今は、さらに数倍の速さになっているという。

次世代コンピューターは、ビッグデータ分析が大きく注目される中、これから、もっとも必要とされるものだ。ビッグデータ分析については、2011年1月「ビッグデータ分析に注目」、2012年10月の「インターネット企業から生まれたビッグデータ対応技術」などに書いている。ビッグデータ分析は、単に大量のデータを高速に分析するだけでなく、これまでのコンピューターが苦手とする、文章などの非定型データの取り扱いや、正しいかどうかはっきりしない、あいまいなデータ(Noisy data)の取り扱いも含まれる。このようなデータをもとに、何が起こっているか、これからどうなると予想されるか、今起こっていることを最適化するにはどうすればいいか、などの分析をする。ワトソンが使われ始めたヘルスケアの世界では、将来実用化が期待される、個人個人の遺伝子や体質に合った薬の処方にもつながる。このようなことをするには、今日のコンピューターでは限界があり、新たな次世代のコンピューターが必要になってくる。

次世代コンピューターは、入手したデータそのものだけでなく、それがどのように得られたデータかなどの、前後関係(context)を理解する必要がある。また、あいまいなデータも含まれるので、そのまま信用するのではなく、統計的分析などを行い、何が正しいかを推定していく必要がある。そして、毎回与えられた仕事をゼロから始めるのではなく、それまでにやってきたことを学習(ラーニング)していく必要もある。

実は人間は、このようなことすべてを毎日やっている。それもワトソンのような大量のハードウェアと電力などを使わずに。ただし、人間は、ワトソンのように膨大なデータ量を記憶し、分析することは、残念ながらできないため、人間を補助するために、ワトソンのようなコンピューターが必要となる。そのため、ワトソンをより進化させるため、人間の脳と同じような回路の仕組みを、もっと簡単にできないか、脳科学の応用も試みられている。

ワトソンは、このような新しい世代のコンピューターの考え方を使い始めているが、それを実行するハードウェアは、まだ今日存在するものを応用しているに過ぎない。コンピューターが単なるスイッチとワイヤーをつなげた演算装置から、プログラム式に変わったときも、最初は真空管を使った、今から考えるととても遅く、図体はばかでかいものだった。それがその後、真空管からトランジスターになり、IC(集積回路)になり、そのICは、ムーアの法則(科学的な法則ではない経験則)に従い、約2年ごとに2倍早くなり、コストもどんどん下がっている。その結果、数十年前には、大型コンピューターにしか持てなかった能力が、パソコン、あるいはスマートフォンで実現する世の中になっている。

ワトソンは、その意味で、まだまだこれからはじまる第一歩を踏み出したに過ぎない。真空管式からはじまったコンピューターが数十年かけて、今日の姿になったように、ワトソンとそれに続く次世代のコンピューターは、ハードウェアを含め、これからどんどん進化していく必要がある。そのためには、現在のコンピューターのアーキテクチャーである、フォンノイマン式では、もはや限界に来ており、ここでも新たなイノベーションが必要となる。

シリコンバレーには、コンピューター歴史博物館があり、演算装置に始まり、真空管式のコンピューター、IBMの大型コンピューター、パソコンの走りであるApple MacintoshやIBM PCなどが飾られている。それに加え、つい最近、1年限定だが、Jeopardyのテレビセットそのままの形で、ワトソンも飾られた。ワトソンが次世代コンピューターの礎になるのだとすれば、まさしくここに飾るにふさわしい。

人間のように考えるコンピューターなどという話をすると、昔SF映画などで見た、ロボットが人間を支配するような怖いものを想像する人もいるかもしれない。しかし、そのような可能性は、はるかかなたの将来の話で、そこにいたる前に、コンピューターがわれわれ人間のために役立ってくれることは限りなくある。そのようなものを享受しつつ、間違った方向に走らず、未来を作り上げるのが、人間のはずだ。日本の山中教授により画期的に樹立されたiPS細胞とて同じで、将来のクローン人間の不安などを言う前に、たくさんのメリットを享受すべきものだ。ワトソンの登場で、コンピューターの世界が急に一変するわけではないが、その大きな変革の本格的な一歩がはじまったといえる。

  黒田 豊

(2013年7月)

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