12年の軌跡

このコラムを書き始めたのは1995年9月であるから、今回でちょうどまる12年が過ぎ、干支をひと回りして、13年目に入ったことになる。12年という長い年月、この「シリコンバレー通信」(旧「西海岸メディア通信」)を続けてこられたのも、本コラムをお読みいただき、また、励ましのメールなどいただいた、皆様のおかげと感謝している。

さて、今回はその12年間を少し振り返ってみたいと思うが、この間、世の中で起こってきたことは、すでにシリコンバレー通信で書いてきたので、今回は、この12年間に、私自身に起こったことをご紹介させていただこうと思う。

私が日本IBMを退社し、米国シリコンバレーのSRI International社に移ったのは1988年春であるから、12年前の1995年といえば、SRIに移ってから7年がたち、SRIでの情報通信電子関連ビジネス・コンサルティングの仕事にも慣れて、油が乗ってきていた頃である。そして、ちょうどその頃、インターネットが米国で広がり始めた。インターネットは、私がこれまで見てきたことの中で、とても大きな動きであり、情報通信の世界だけでなく、社会をも大きく変えていく可能性のあるものと感じた。たまたまSRIがインターネット発祥の地であったご縁もあり、拙著「インターネット・ワールド」(丸善ライブラリー)を出版することとなった。その後のインターネットの広がりは、ご存知の通りである。このコラムを同じ年の1995年に書き始めたのも、この本がきっかけであった。

しばらくして、インターネットの大きな広がり、またインターネット関連の多くのベンチャーの出現が、私の人生にも大きな影響を及ぼし始めた。SRIがコンサルティング部門をSRI Consultingとして1996年に100%子会社としたのは、単なる組織変更程度のものだったが、2000年1月に、さらにこのSRI Consulting情報通信電子部門に大きな変化が起こった。この頃、インターネット関連のベンチャー企業がたくさん出現し、すでにいくつもの会社が株式上場しはじめていた。そして、これらベンチャー企業に行けば、ストックオプションがもらえ、会社が株式上場すれば、にわか成金になれるというので、ベンチャー企業を志向する人達が多かった。そのため、われわれのような、ベンチャー企業ではなく、ストックオプションももらえない会社は、仕事場として人気がなくなってきてしまったのである。

その結果、優秀な人材を確保するためには、われわれもベンチャー企業的な形をとる必要があるという話になり、2000年1月に、SRI Consultingの情報通信電子部門は、会社をスピンアウトし、ベンチャーキャピタルの資金も導入して、ベンチャー企業として再出発したのである。この頃の話を詳しく書き始めると、とてもこのコラム記事ではおさまらないので、簡単に書くが、まずは新しい40代くらいの社長が外部から来て、会社設立の準備をはじめ、会社名もきまり、ロゴも決まった。そしていよいよ会社がはじまって数ヶ月たったと思ったら、なんと突然社長が解任され、別な30代半ばくらいの新しい社長が就任した。こちらはあっけに取られるばかりであった。

新社長がまずやったことは、前社長が外部マーケティング会社に高いお金を払って作った会社名とロゴをやめ、また別なマーケティング会社に頼んで別な会社名とロゴを作ることだった。なんとも無駄な話であるが、当時はベンチャーキャピタルからの資金も豊富で、お金を節約しようという空気は少なかった。会社のチームワーク作りのためのBoot campと称する1週間くらいのワークショップを社員全員に順々に実施したりもした。また、本社はSRI内、西海岸のカリフォルニアに置いたが、東部にも支店を作り、ニューヨークの高級な場所に事務所を構えたりした。また、オフィス内には、ピンボールマシン(ゲーム)をそなえて、仕事に疲れたら使えるようにするなど、いかにも当時のシリコンバレー・ベンチャー企業らしい、いろいろなことを行った。社内で見ていても、いかにもお金の使い方が雑という感があったが、他社の話を聞くと、全社員でLas Vegasに行ってどんちゃん騒ぎをしてお金をたくさん使ったとか、この手の話は枚挙にいとまがない状況だったので、私のいた会社は、むしろましなほうだったかもしれない。

この頃のベンチャー企業の最大の目標は、利益は後回しで、急速に業績を伸ばし、投資家に高い評価を得て、早く株式上場することであった。そのため、サービス業であるわれわれは、人をともかくどんどん採用しなければならないということで、私も1日に何度もいろいろな人の採用インタビューを行った。当時、企業間で人の取り合いが起こっていたので、朝から夕方までいろいろな人がインタビューを行い、いい人材と思えば、その人が夕方帰るときには口頭で内定を伝える、という忙しいやり方をしていた。このような性急な採用の仕方をしていたから、優秀な人材も混じってはいたが、やはり玉石混淆状態であったことは否めない。

このようなことを繰り返し、数十人でスタートした会社の社員数も、あっという間に300人以上になっていた。ところが、順調に行っていたのも束の間、2000年秋頃から、急激にインターネット関連ベンチャー企業への投資意欲が冷え込んでしまった。その結果、われわれの立ち上げた会社も、業績はそこそこ伸びていたものの、追加資金のめどが立たず、人員削減につぐ人員削減を繰り返すことになってしまった。最終的には、別なベンチャー企業に2001年に合流することになったのだが、そのときには、社員数はわずか30人前後となっていた。残っていたのは、SRI時代から黒字を続けていたわれわれアジア・パシフィック部門と情報セキュリティ・コンサルティング部門のみで、残りの部門は既に消滅していた。

その後、この新しく合流した会社は、支出をきりつめながら業務を続けたため、株式上場するまでにはいたらなかったが、数年業務を続け、別な大きな会社に2005年に買収されることになった。私はこの大きな会社に1年あまり在籍したが、結局その会社が、これまでわれわれがやってきたビジネス・コンサルティングを実施しないとの結論にいたったため、同じ会社内で別な仕事に移るよりも、これまでの仕事を続けたいということで、SRI時代からの仲間と、現在のCardinal Consulting Internationalを設立したのである。すでにCardinalでのビジネスをはじめてから2年近くが経つが、おかげさまで、今までどおり仕事を続けられているのも、これまでお付き合いいただいた皆様のおかげと感謝している。

今はふたたび落ち着いて仕事をしているが、振り返ってみると、ベンチャー企業としての経験も、とても有意義なものであった。ストックオプションをもらい、わずか1年足らずだったが、会社が順調に見えたころは、予定どおり会社が株式上場したら、このストックオプションが$xxx……になる等、とらたぬ(取らぬ狸の皮算用)をやって、楽しんでいたのも、いまはいい思い出となっている。また、あの当時の、ともかくWall Streetの視線のみに注力し、堅実に企業利益を求めるよりも、ともかく売上げを伸ばして、表面的に株式上場しやすくする、というやり方の大きな問題点を実体験できたのもよかった。今、冷静に考えてみれば、あれであの会社がとりあえず株式上場だけして、私を含む社員ばかりが大きな利益を上げるようなことがあったとしたら、我々はろくな人間にならなかったのではないかと、今更ながら思っている。

このようないろいろな体験をしながら、シリコンバレーでの私の生活もそろそろ20年近くになった。そのような体験も生かしながら、今後も引き続き、日本企業に対する情報通信電子分野のビジネス・コンサルティングを続け、またこのコラムを書き続けて、多少なりとも皆様のお役に立てればと思っている。

  黒田 豊

(2007年9月)

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